誠照寺の歴史

親鸞聖人とのご縁から現在までの誠照寺の歴史について

誠照寺御伝絵

上野山誠照寺(うわのさん じょうしょうじ)の起源は、承元元年(1207年)親鸞聖人が越後へご配流のとき、越前上野ヶ原(うわのがはら)の武士、波多野景之の別荘にご滞在になり、弥陀本願の要法を説かれた初転法輪の聖地に始まるとされています。
 波多野景之は念仏の行者となり、法名「空然」(くうねん)と称したと伝わります。現在ではこの地を「車の道場」と称しています。

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永享5年町屋敷寄進状(真照寺)

その後、景之は聖人の第五子道性をこの車の道場にお迎えし、その息男、如覚上人とともに教化活動をされたといいます。
 如覚上人の代に車の道場の地が手狭となったので、波多野景之の寄進により現在の地に移り、大覚寺統「後二条天皇」より「真照寺」の寺号を賜ったと伝わります。

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永享11年文書(誠照寺宛)

道性・如覚両上人は正信偈・和讃をよりどころとし、勧化章(かんけしょう)を作って教化にあたりました。
 時は戦乱の南北朝時代、念仏の「み教え」は南朝勢力の展開と共に越前から奥美濃へと広まり、「和讃門徒」と称されました。
 南北朝が統一したのち、永享9年(1437年)第七代秀応上人の時に「後花園天皇」より改めて「誠照寺」の勅願を賜り、以後宗勢は大いに栄えました。

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羽柴秀吉安堵状(誠照寺宛)

室町時代も越前では長禄合戦をはじめ戦乱があいつぎました。1500年代後半には本願寺率いる越前一向一揆勢との激しい戦いや羽柴秀吉の兵火による伽藍の焼失、江戸時代はじめの寺院法度をうけ、上河端常楽寺や誠長寺との本山争いなどで宗勢は一時大きく衰微しました。
しかし中興上人といわれる第十五代秀諴(しゅうかん)上人が入寺され、閻浮檀金手引阿弥陀如来の本尊としての勧請や様々な復興、改革事業により、讚門徒誠照寺教団として再興されました。

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江戸中期誠照寺鳥瞰図

江戸中期、第二十代秀実上人の頃には隆盛を極め、後年、摂家二条卿を猶子家とする格式を得て、現法主、二條秀瑞猊下(にじょう しゅうずい げいか)まで三十代の永きにわたり、真宗本願他力念仏の根本道場として伝灯相承され、今日に至っています。


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二條藤紋(誠照寺紋)

誠照寺のいま

現在は宗教法人「真宗誠照寺派」の本山として、鯖江市を中心とした真宗門徒のよりどころであり、「誠市」などいろいろな催しを通して、地域社会に根差した本山となっています。



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歴代上人とおもな出来事

初代 親鸞聖人
(開山)

承安3年(1173)生
~弘長2年(1262)
承元の法難にて越後に配流のおり、上野ヶ原の波多野景之の屋敷に逗留されて説法をし、阿弥陀仏坐像を遺されたと伝わる。

第二代 道性上人

承久3年(1221)生
~永仁5年(1297) 
寺伝では、聖人第5子(益方)として生まれ、17歳の時に波多野景之の養子になったとされる。車の道場に住み、河俣の支坊道場(後の常楽寺(江戸前期に廃寺))に第二子道光を住まわす。
弘安2年に子の如覚と共に現在地へ堂宇を建てる。
後に第三子常光を伴なって、山元の庄(水落)に隠居し、後の證誠寺(現 真宗山元派本山)の開基となる。

第三代 如覚上人
(開基) 

建長2年(1250)生
~応長元年(1311) 
道性の嫡子で誠照寺派の開基。
大覚寺統の後二条天皇より真照寺の寺号、勅額を請け、住持の綸旨を賜る。
和讚勤行を継承し、勧化章を用いて教化した。

第四代 良覚上人

永仁4年(1296)生
~正平4年(1349)
如覚の嫡子。
西福寺の開基となる。

第五代 秀覚上人

元応2年(1320)生
~天授6年(1380)
良覚の嫡子。
南光寺の開基となる。

第六代 秀雲上人

正平5年(1350)生
~応永26年(1421)
秀覚の5男。浄土宗西山や法相に学び、帰山して法統を継承。

第七代 秀應上人

応永6年(1399)生
~文明15年(1483)
秀雲の嫡子。 

南北朝統一後の時代、末寺門徒は加賀能登、美濃、越中まで及んだといわれ、教団として全盛時代を誇る。
後花園天皇の勅願所となり、誠照寺の寺号を賜る。
現在誠照寺に所蔵の、聖徳太子木像、一尊十二光仏絵像もこの時代のものと言われる。

第八代 秀慶上人

文安4年(1447)生
~大永5年(1525)
秀応の次男。本願寺蓮如上人吉崎逗留、並びに本願寺勢の一向一揆によって、誠照寺の末寺門徒の多くを失う。 

第九代 秀栄上人

延徳元年(1489)生
~天文21年(1552)
秀慶の嫡男。本願寺一向一揆がさかんになり、越前守護朝倉孝景より安堵状を得る(末坊常楽寺宛文書(誠照寺所蔵))
天文21年、一揆勢の夜襲により横死される。

第十代 秀意上人

天文11年(1542)生
~元和2年(1616)
秀栄の嫡子。天正3年(1575)越前守護柴田勝家より安堵状を得る。
賤ヶ岳の合戦後、秀吉勢により放火され伽藍は消失。秀意上人も逃れて7年間能登や美濃の門末へ身を隠す。秀吉より安堵を得て後、仮御堂を建て、安心文を制定され、門末の教化をはかられた。

第十一代 秀盛上人

天正17年(1589)生
~元和2年(1616)
秀意の末子。在職2ヶ月にして入寂された。

第十二代 秀顕上人

永禄3年(1560)生
~元和7年(1621)
秀意の長男。秀吉の兵火をのがれて上洛し、浄土宗西山禅林寺の学僧となられた。元和3年に請われて帰山し、誠照寺の法統を継承された。

第十三代 秀恵上人

天正7年(1579)生
~寛永4年(1627)
秀顕の道友にて、秀顕の遺言によって元和8年に入山し、秀恵と改められた。

第十四代 秀山上人

慶長11年(1608)生
~寛文3年(1663)
福井松平藩重臣、高谷越後守の三男。寛永元年に入山された。寺院法度を受けて、連枝寺の常楽寺や誠長寺などとの本末争いにご苦労なされた。

第十五代 秀諴上人
(中興)

寛永19年(1642)生
~元禄4年(1691)
福井松平藩重臣、太田兵庫頭資武の息男。慶安3年に入寺され、15歳の時に得度。寛文3年に参内され、綸旨上人号を受けられ帰山。
御影堂の再建や、ご本尊である閻浮檀金手引阿弥陀如来像を勧請された。門徒各戸への名号の下附、現在の誠照寺派御文章の制定、寺法を制定されるなど末寺門徒の教化伝道に力を尽くされた。現在の誠照寺教団の基礎をつくられ、中興上人と呼ばれる。

第十六代 秀海上人

寛文4年(1664)生
~元禄6年(1693)
松平藩家臣、毛受太郎左衛門尉の次男。延宝2年に得度、元禄6年に参内。勧修寺大納言経慶の下に東山天皇より綸旨を賜った。
この時、公弁法親王【天台座主・東叡山寛永寺管主・日光山(東照宮・輪王寺)門跡・東叡山輪王寺門跡】の参内があり、この時のご縁により院室となった。

第十七代 秀如上人

延宝3年(1676)生
~享保14年(1729)
江州膳所藩主本多隠岐康慶の末子。元禄7年得度、14年に西園寺家の猶子となって権僧正に任ぜられた。この上人代に寺域及び寺領が幕府御朱印地に認められた。 

第十八代 秀存上人

元禄10年(1697)生
~享保16年(1731)
秀如の嫡子。享保16年上洛中に急死された。

第十九代 秀憲上人

享保3年(1718)生
~寛保3年(1744)
中山兼親の末男。西園寺家の猶子となって入山された。26歳にて入寂。
15代秀諴上人が建てられた御影堂に続き、享保20年(1735年)起工式から元文2年(1737年)に九軒四面入母屋づくり柿葺の阿弥陀堂を建設された。
寛保3年(1743年)に誠照寺派御伝鈔を制作。公卿庭田重孝筆による。

第二十代 秀實上人

享保16年(1731)生
~文化3年(1806)
萩原兼武の末男。西園寺家の猶子となって延亨元年入山。現存する梵鐘の鋳造、本堂御空殿、四足門・経蔵の建立をされた。
在職中に、浄土宗と真宗間での「浄土真宗」の宗名事件の抗争や、三業惑乱などがあった。

第二十一代 秀芳上人

明和2年(1765)生
~天明6年(1786)
秀實の嫡男。十三歳で得度し、後に職を継いでまもなく二十二歳にて入寂された。

第二十二代 秀葽上人

天明8年(1788)生
~文化7年(1810)
三条実起の息男。寛政12年に入山された。

第二十三代 秀厳上人

寛政9年(1797)生
~文化9年(1812)
左大臣二条治孝の末子。三条実起の猶子となって入山。翌年急逝される。その後7年間誠照寺は無住となった

第二十四代 秀観上人

文化9年(1812)生
~天保14年(1843)
秀厳の嫡子。文政3年9歳にて法統継承。天保元年に二条家より御裏方入輿。天保4年に亡くなられたため再び二条家より入輿された。

第二十五代 秀量上人

文政12年(1829)生
~明治24年(1891)
村岡藩主山名義藩の末子。西園寺中納言寛季の猶子となって、弘化2年入山された。同年、鐘楼堂を竣工された。
明治2年に法嗣に職を譲られた。

第二十六代 秀源上人

嘉永5年(1852)生
~昭和10年(1935)
西園寺寛季の末男。二条斉敬の猶子となって、万延元年9歳にて入山された。慶応元年得度。18歳にて法統を嗣ぎ、明治10年に御影堂、20年に本堂を再建された。
明治11年に真宗誠照寺派管長ならびに法主に就任。
持法会を設けて布教使をおき、北海道にも開教使をおくられるなど、布教伝道にご尽力なされた。また昭和元年には東京別院(現・満足院本誓寺)を開設された。
明治44(1911)年4/18~28まで宗祖650回御遠忌を厳修。のべ23万7千人の参拝者があった。

第二十七代 秀暁上人

明治12年(1879)生
~昭和16年(1941)
秀源の嫡子。明治24年に得度、44年に法主ならびに管長に就任された。車之道場の復興にあたられ、上野別堂として再建された。
満州事変から太平洋戦争勃発など、度重なる戦争慰霊のため、忠霊堂の建立を発願された。

第二十八代 秀淳上人

明治40年(1907)生 
~昭和61年(1986)
昭和16年1月18日真宗誠照寺派管長に就任。宗制を新制定されたり、昭和27年には終戦後の新制度による寺院規則の改正を行われた。

第二十九代 秀政上人

昭和9年 (1934)生 
~平成13年(2001)
昭和61年より誠照寺第二十九世法主に就任
平成5年5月法灯継承慶讃法要

第三十世 秀瑞法主

昭和53(1978)年生
平成4年4月に嗣法殿得度式
平成13年より誠照寺第三十世法主に就任
平成17年5月 伝燈奉告法要勤修
平成23年5月 親鸞聖人750回御遠忌法要厳修